■ 三方よしは、母親を守るための考え方

三方よしは、 「みんなを完璧に幸せにする」教えではありません。 誰か一人が犠牲にならないための知恵です。
だから、 叱らない日があってもいい。 今日は流してもいい。
それは、 商人道的に見ても ちゃんとした判断です。
叱る前に、三方よしが崩れていないかを見る
― なぜ「叱る」は、あとで苦しくなるのか ―
叱ったあと、
子どもが黙り込む。
部屋の空気が重くなる。
自分の心も、ざらっとする。
「ちゃんと言ったのに」
「必要なことを伝えただけなのに」
それでも残る、
この違和感。
商人道では、
この状態をこう見ます。
叱りが悪いのではない。
叱る"前の状態"が、もう崩れている。
■ 叱りは「教育」ではなく「結果」だった
多くの母親は、
「どう叱るか」を考えます。
- 優しく言うべきか
・厳しく言うべきか
・一貫性を持つべきか
でも商人道の視点では、
叱りは"手段"ではありません。
叱りは、
三方よしが崩れた結果として現れる現象です。
つまり、
-
余裕がなくなった
-
話を聞いてもらえなかった
-
関係がずれてきた
この「積み重なり」の最後に、
叱りが出てくる。
だから叱りだけを修正しても、
また同じことが起きます。
■ 三方よしが崩れると、叱りは「攻撃」になる
三方よしを、もう一度確認します。
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母よし
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子よし
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家庭よし
叱りが必要になる場面の多くは、
この3つが同時に崩れています。
特に多いのが、
母よしが先に崩れているケースです。
疲れている。
我慢が続いている。
「ちゃんとしなきゃ」が積み上がっている。
この状態で出る叱りは、
伝えるための言葉ではなく、
自分を守るための言葉になりやすい。
だから、
あとで苦しくなる。
■ 近江商人は「叱らなかった」のではない
ここで誤解してほしくないのは、
近江商人の奥さんたちは
感情を我慢していたわけではないということ。
彼女たちは、
-
無理な商い
-
家を壊す判断
-
自分をすり減らす決断
に対しては、
きちんと NO を言っていました。
ただしそのNOは、
怒りではなく
構造への指摘でした。
「それ、続きませんよ」
「それ、家が先に潰れます」
これは、
叱りではなく、
方向修正です。
■ 子育てに置き換えると、こうなる
子どもに対しても同じです。
叱る前に、
こんな問いを立ててみてください。
-
これは「危険」か「都合」か
-
今すぐ止めないといけないことか
-
明日話してもいいことか
商人道では、
今止めるべきことは、実は少ないと考えます。
本当に今すぐ叱るべきなのは、
-
命に関わること
-
他人を傷つけること
それ以外は、
叱らなくても
関係を整えることで自然に収まることが多い。
■ 「叱らない」判断は、逃げではない
母親が一番苦しむのは、
「叱らなかった自分」を
責めてしまうときです。
でも商人道では、
こう考えます。
叱らなかったのではない。
叱らないほうが"三方よし"だった。
これは、
判断の放棄ではありません。
長く続く関係を選んだ、立派な判断です。
■ 叱るかどうかより、大事なこと
商人道が本当に大切にしているのは、
叱るか、叱らないかではありません。
戻れる関係があるかどうか。
- 話しかけられる
・笑顔が戻る
・次の日が続く
これがあれば、
叱りは"育ち"に変わります。
■ この話を、対話で深める場
「みっちゃんの寄りあい食卓」では、
この「叱る」をテーマに、
-
子育て
-
人材育成
-
家庭と仕事の両立
を、商人道の視点で
少人数で対話する時間をつくっています。
正解は出しません。
でも、
帰るときに少し肩が軽くなる。
そんな場です。
